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―新たな時代を切り拓くために―

JAMCO オンライン国際シンポジウム

第32回 JAMCOオンライン国際シンポジウム

2024年2月~

分断の危機にある世界で今訴えたいこと

異文化理解教育の再構築
―新たな時代を切り拓くために―

佐藤 郡衛
東京学芸大学名誉教授、目白大学名誉教授、国際交流基金日本語国際センター所長

1.異文化理解教育の見直しの視点

 異文化理解教育は、歴史的に「学習内容としての異文化」に焦点を当てたものと、異なる文化的背景をもつ人々との関係構築に焦点を当てたものの2つの流れがあるといわれる(1)。前者はもともとユネスコが提唱したものであり、世界平和のためには他国・他民族理解が必要であり、その上で国家間の相互理解を目指そうとしたものである。後者は主にアメリカで発展してきたもので、文化や言葉が違う人同士が関係を作るためのスキルの習得に焦点を当てている。文化が違えば、考え方・価値観が異なることも多いが、そうした違いをどのように埋めていくか、あるいは違いから生ずる誤解や偏見をどのように解消できるかが課題になり、そのためのスキルの習得を重視したものである。

 この2つの流れは、社会や教育の考え方の変化に伴い統合されるようになってきた。つまり、異文化理解教育は文化に関する学習を通して、多様な背景をもつ人と関わっていく能力の育成が強調されるようになってきた。この変化を促した要因はいうまでもなくグローバル化である。グローバル化の進行は、人の国境を越えた移動を促し、文化の境界を曖昧にすると同時に、文化のもつ重みを際だたせてきた。他の文化と接触を繰り返し、相互に影響し合うという状況で、固有の文化同士の摩擦、衝突がおこり、文化が紛争の要因になってきた。このため、文化理解から利害の調整や合意形成などをどのように達成するか、そのための能力の育成が異文化理解教育により強く求められるようになったのである。

 そこで重要になったのは異文化理解教育が前提にしてきた「異」「文化」「教育」の概念を問い直すことである。第1は「異」の問い直しである。これまでは自文化を自明なものとして、それと異質なものを弁別する二分法が存在し、自文化は容易に理解可能とする前提があった。しかし、この自文化=日本、異文化=外国という捉え方は、日本に住む外国人にとっては日本文化が異文化だという当たり前の互換性の意識が欠如してしまうことになる。つまり、「異」とは誰にとっての「異」かが問われるようになったのである。しかも、グローバル化により「異」と「自」の境界が曖昧になり、二項対立の枠組みでは現実が捉えられなくなり、「異」というカテゴリー自体を問う必要が出てきた。

 第2は文化の問い直しである。これまで、文化を集団に関わるもの、集団に共有されたものとみることが暗黙の前提であり、異文化理解はこうした実態としての文化を想定し、それを理解するという考え方が強かった。つまり、「日本文化」「○○文化」といったように、文化を国という枠で括り、しかも変化することのない固有の性質があると捉えてきたのである。これは「文化本質主義」といわれる。グローバル化により文化はハイブリッドで流動的、混淆的な側面が強くなり、この「文化本質主義」が批判されるようになった。しかも、これまでの捉え方は、個人を文化を受け入れるだけの存在としてみてしまうという問題もある。さらに社会の多文化化が進み、1つの社会内部の多様な文化にも注目する必要が出てきており、同じ文化に属する人は、同じ行動や思考をするという捉え方は現実に合わなくなってきた。こうした文化の捉え方の変化もまた異文化理解教育に影響を与えている。

 第3は教育観や学習観の転換である。世界的な教育改革の動向として、学校で通用する「学力」よりも社会で必要とされる能力が重視されるようになってきた。知識の量ではなく、学習者自らが知識をとらえ直したり、新しい知識を創ったりするということが重視されるようになり、学習者中心の「アクティブラーニング」が前面に出てきた。しかも、個人の能力を伸ばすことと同時に、よりよい社会づくりを目指すことが教育の役割として改めて認識されるようになった。具体的には、1つの国・地域だけでは解決できない課題が山積し、それぞれの問題の原因や背景を理解し、解決策を探っていくようなグローバルな視点からの学習が重要になっている。そうした問題には正解がないことが多く、正解のない課題に挑戦し続けるという態度の育成が重要視されるようになり、異文化理解教育でもこうした学習を強調する必要が出てきたのである。

2.異文化理解教育の新たな視点

 こうした変化を踏まえると異文化理解教育はその視点や対象を広げていく必要がある。第1は文化理解という視点でいわば狭義の異文化理解教育である。異文化理解教育では異文化についての科学的な知識を習得することが必要不可欠である。知識がないことは誤解や偏見を生み、相互理解を阻む要因にもなる。また、異文化理解は自文化を知ることにもつながる。異文化理解の方法には、異文化理解を通して自文化理解に至る方法と自文化を発見した上で異文化理解にいたる方法があるといわれる(2)。このことは、異文化理解とは異文化に触れ、他者を理解するためだけではなく、自文化を捉え直すことで自己をみつめるという側面にも注目することであり、異文化と自文化を統合的に捉えていくことである。

 第2は多文化共生という視点である。日本では、グローバル化により人種、民族、国籍など多様な背景を持つ人が増加してきた。しかも性別、年齢、障がい、性的マイノリティなどのカテゴリーにも注意がむけられるようになり、社会の多様化が一層進んでいる。日本で生活するすべての人々が国籍や文化の違い、年齢や世代の多様性、障がいの有無、さらには性的多様性を受け入れ、多様な人々のつながりと支え合いの風土を育み、誰もが自分らしく、生き生きとした人生を送れるようにしていかなければならない時代になってきた。それは多文化共生という課題であり、異文化理解教育でもそうした取り組みが求められている。

 第3は文化の創造という視点である。これまで異文化理解教育では、文化は既にあるもの、受け入れるものといった視点から学習が進められてきた。しかし、それでは個人は常に受け身の存在にすぎない。また、グローバル化の進行により、文化の境界が曖昧になり、新しい文化の創造への挑戦がなされるようになってきた。特に若い世代では、音楽や映像などさまざまなジャンルで新しい試みがなされている。例えば、津軽三味線の奏者である川嶋志乃舞さんは、「『伝統芸能(日本文化)はこうあるべき!』という先入観や固定観念にしばられず、三味線が入った音楽=和風というイメージをとりはらい、伝統芸能の可能性のはばを広げていくきっかけを築きたい」と話している(3)。異文化理解教育ではこうした文化の創造の動きに注目し、若い世代を新たな文化創造の主体として育成していくような取り組みを重視する必要がある。

 第4は世界に共通する課題の学習という視点である。世界情勢は2020年を境に大きく転換している。地球温暖化による世界規模での自然災害の多発、新型コロナ感染症のパンデミック、さらにはロシアによるウクライナ侵攻などこれまで想定しなかった事態に突入した。グローバル化が質的に異なる段階に入ったといえる。グローバル化は日本と世界の相互の結びつきが強まった段階(1.0時代)、世界の相互依存関係が強まり世界全体が一体化した段階(2.0時代)から、新たな混沌とした時代に入り、共通の価値や利害の調整がますます必要になってきたが、この新たな段階はグローバル化「3.0時代」とでも表現できる。こうした時代にあって、異文化理解教育でも世界が直面する課題に正面から向き合う必要がある。その手がかりになるのがSDGs、持続可能な開発目標である。異文化理解教育では、その中でも貧困、教育、不平等、平和・公正などをテーマにした学習が求められるようになってきた。

3.異文化理解教育で育成すべき能力

 異文化理解教育の視点が広がることにより、育成すべき能力も検討する必要がある。異文化理解教育では、異文化や自文化への興味・関心を持たせることが第一歩だが、それにとどまらず新しい能力の育成を目指さなければならない。第1は多様な見方・考え方の育成である。異文化理解教育は文化概念の広がりとともに、下位文化にも注目するようになってきた。特に、地域、世代、ジェンダー、障がい、性的指向などに注目するようになってきたが、そのためには多様な見方・考え方が不可欠になる。多様な背景を持つ人とつながる時に、それまでの固定した枠では相互の理解は深まらない。例えば、「外国人−日本語ができない人」「障がい者−介助される人」「高齢者−支援される人」といった従来の二項関係では、こうした人たちを常に弱者として位置付け、偏見や差別を助長することにつながる。多様な背景の人との関係を築くには新たな視点や関わり方を見出すことが必要であり、そのためにも多様な見方・考え方を育成することが重要になる。

 第2は批判的思考力の育成である。これは学校教育全体の課題になっているが、異文化理解教育では特に重要である。批判的思考力とは、適切な規準をもとに自分なりの判断がくだせる力や不合理な規則や既成の枠組みを疑ってかかることができる能力である。社会や文化の既成の枠やステレオタイプをそのまま受け入れるのではなく、それらを批判的に捉え返していく力のことである。これからの異文化理解教育では、固定した知識の習得だけでなく、自文化を批判的に捉えること、文化間の比較を通してそれぞれの文化の特徴を分析すること、社会的な課題に向き合いその解決の方策を考えることが重要になる。このように社会の構造を批判的に捉え、社会の変革を視野に入れた教育を進めていくことが必要になっている。この批判的思考力は文化の創造という取り組みでも不可欠な能力である。

 第3は、人と関わり他者との関係をつくる能力の育成である。異文化との接触や交流では、葛藤や対立はつきものだが、その葛藤や対立を調整することが必要になる。それは差異を認め、受容することにつながる。教育の世界では、これまで「誰とでも仲良くすることはいいこと」とされてきたが、この言説が問題である。自分とどうしても合わない人の存在を認めどうつきあっていくかを重視すべきである。共生には「自らは受け入れられないほど異なっていると認知したものを、なお同じ社会で生きる存在としてその生存を認め、共に生きていくという厳しい覚悟」(4)が必要であり、そのためには寛容性(トレランス)が重要になる。この寛容性を育成するには、差異を正しく理解し、その上で他者への想像力を高めていくような実践が必要である。このように異文化理解教育では、寛容性やコミュニケーション力の育成が重要になるが、それらは直接的な交流や体験など他者との関係を通して育成されるものであり、意味のある交流活動を行なっていくことが課題になる。

 そして第4は社会的な視野や社会とつながるための力の育成である。異文化理解教育は世界や地域が直面している課題の解決に向けた取り組みが必要になっている。こうした世界に共通する課題、それは身近な地域の課題として顕在化することも多く、そうした課題の解決に協働で取り組むことが重要である。しかも課題解決にはこれまでの知だけでは対応できないことは明らかであり、新しい知の創出が不可欠である。近年、「探究学習」が注目されているのは、これまでの知をもとに協働の学びを通して課題解決に向けた新たな知を創出する必要があるためである。異文化理解教育では、世界や地域の課題を「自分ごと」にし、その解決に向けた実践に取り組むことが課題になる。

4.異文化理解教育の実践上の課題

 最後に異文化理解教育の実践を進める上での課題について検討する。異文化理解教育で重要なのは学びの深まりをいかにつけるかである。異文化理解では、これまで3F(fashion、food、festival)を中心に取り上げることが多かったが、こうした実践は文化の表面的な理解やステレオタイプにつながるという問題を抱えてきた。また、異文化間の交流活動では「活動あれど思考なし」といった点も批判されてきた。これまでの実践からいかにして学びを深めるかが重要な課題であることがはっきりしてきた。

 異文化理解教育は、その対象が広がり外国人、留学生、障がい者、高齢者、性的少数者など、多様な背景を持つ人に注目するようになっている。また、世界が直面している課題である貧困、教育、不平等、平和・公正などの内容も取り上げるようになってきた。こうした課題の学習はともすると規範的な学習に陥りやすく、学習が閉じられてしまうことがある。例えば、学習を進めていくと、「差別はしていけない」「自分は差別をするようなことない」、あるいは「すべての人に教育機会を」といった「模範的な解答」を導き出し、そこで学びが止まってしまうという問題である。私も大学でこうしたテーマで授業をしてきたが、学生たちのレポートや話し合いで気づくことは、タテマエともいうべき「正解」に向けて学習が収斂し、その先の学習につながらないということを幾度となく経験してきた。

 そこで重要になるのが、「脱学習」「学び捨て」(unlearning)という視点である(5)。これは、これまで「当たり前」だとされてきたことが決して「当たり前」でないことに気づき、自らそれを捨て去り新たな学習を進めていくものである。例えば、社会的マイノリティといわれれる人たちに対する偏見や差別は家庭やマスメディアなどを通して形成されることが多いが、それを前提にして学習が進められる。また、世界的な課題も多様なメディアを通して多くの知識を得ているが、国・地域などの実情を捨象して一般化し、安易な解決策を提示するような学習に陥ることも多い。そこで重要になるのがそれまで習得したり、内面化したりした知識や考えを一旦捨て去ることであり、それが「脱学習」「学び捨て」と呼ばれるものである。

 こうした実践の1つに「ヒューマンライブラリー」がある。これは2000年にデンマークのNGOが北欧の音楽祭で始めた偏見低減をめざした取り組みである。社会で偏見に晒されることの多い人が、自らの意志で「本」となり、来場した「読者」と対話をし、自分の人生を語る取り組みであり、日本でも近年研究と実践が蓄積されている。これまでの実践から「生きにくさを抱えた人などの身近な異文化を生きる人」と直接関わり、対話をすることで当事者の生き方に触れ、しかも当事者も自分を語ることで自己を開示できるようになることが報告されている(6)。こうした実践は、偏見や差別の実情や「生きにくさ」を直接的対話から感じとり、それらを解消するには何が必要で、自分は何ができるかを考えるようになる。「脱学習」「学び捨て」により、社会的な課題を自分ごととして捉えるようになり、新たな学びにつながっている。こうした実践が個人の偏見の低減や他者理解に効果があることはいうまでもない。

 ただ、偏見や差別は社会的に構造化されているため、個人のレベルだけでは解決できない問題であり、社会的な差別や排除のメカニズムにまで視野を広げなければならない。これは貧困、教育、不平等、平和・公正など世界が共通して抱える課題の学習でも同様であり、社会的な仕組みや構造に目を向けることで、学びの広がりと深まりが出てくる。このように異文化理解教育は、社会のあり方を問い、その改革や変革にコミットし続ける人間を育成するという実践的な取り組みである。単なる物知りや現状の解説・批評をするのではなく、社会を変革する実践者として育成することを目指していかなければならない。新しい時代を切り拓くための異文化理解教育を構想していくことが求められている。

(注)

  • (1)森茂岳雄(2022)「異文化理解教育」異文化間教育学会編『異文化間教育事典』206頁

  • (2)青木保(2001)『異文化理解』岩波新書、192頁

  • (3)川嶋志乃舞さんについては次を参照。https://finders.me/articles.php?id=997

  • (4)小林早百合(2005)「多文化社会の質的変化と寛容の変容」佐藤郡衛・吉谷武志編『人を分けるものつなぐもの』ナカニシヤ出版、152頁

  • (5)「脱学習」については、大阪多様性ネットワーク・森実編著(2014)『多様性の学級づくり』解放出版社、108~109頁を参照

  • (6)坪井健「自己と他者の関係性の再構築」坪井健・横田雅弘・工藤和宏編著(2018)『ヒューマンライブラリー -多様性を育む「人を貸し出す図書館」の実践と研究-』明石書店、295~296頁

佐藤 郡衛

東京学芸大学名誉教授、目白大学名誉教授、国際交流基金日本語国際センター所長

東京学芸大学教授、東京学芸大学理事・副学長、目白大学学長、明治大学国際日本学部特任教授などを経て、現在、東京学芸大学名誉教授、目白大学名誉教授。2020年から国際交流基金日本語国際センター所長を兼務。専門は異文化間教育学/博士(教育学)。

これまで日本にルーツのある子ども、外国にルールのある子どもの教育に関心を持って、調査研究を進めてきた。明治大学国際日本学部に在職中は、主に「ダイバーシティと社会」という講義を担当し、日本のダイバーシティの現状、ダイバーシティの推進のための社会の変革の必要性などについて学生たちと共に考えてきた。現在は、日本内外の子どもの言葉の教育、特に日本語教育に関心を持ち、研究を進めている。

主な著書として、『国際理解教育』(2001年)、『異文化間教育』(2010年)、『多文化社会に生きる子どもの教育』(2019年)『海外で学ぶ子どもの教育』(共著 2020年)などがある。

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