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JAMCO オンライン国際シンポジウム

第25回 JAMCOオンライン国際シンポジウム

2016年12月~2017年6月

主要国のテレビ国際展開の現状と課題

再考:外交政策およびパブリック・ディプロマシーとの関連におけるトルコの公共放送TRTのトランスナショナル化

ディルルバ・チャタルバシュ・ユルペル
ガラタサライ大学コミュニケーション学部教授・博士


パブリック・ディプロマシーとは、「伝統的な政府対政府の外交とは異なり、広報や文化交流を通じて、民間とも連携しながら、外国の国民や世論に直接働きかける外交活動のこと」(外務省ホームページより引用)である。
出典: http://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/faq/culture/gaiko.html


ユルペル教授は、『ジャーナリズムの国籍』(慶應義塾大学出版会)の中で、国と国との関係を基礎とする「国際(インターナショナル)」という言葉に対して、「トランスナショナル」とは、テクノロジーの発展により生まれた汎国家的な空間だと書いている。そしてトランスナショナルなコミュニケーションとは、ケーブル、衛星、インターネットなどにより、国家や文化をまたいで同じコンテンツを供給できるメディアシステムだと説明する。


はじめに

政府と非政府の相互依存関係が増している今日では、国民国家は従来からの外交手段を代替的な方法で補完することを余儀なくされている(Morin, 2012)。伝統的な外交は、国家その他の国際的な組織の代表者間の意思の疎通を必要とするが、パブリック・ディプロマシーはそれとは異なり、外国の一般市民や、市民社会のより特定化された集団、非政府組織、個人をターゲットとする(Melissen, 2005:5)

国境を越えるトランスナショナルなテレビは、各国が次第に取り組みを始めている「仲介的なパブリック・ディプロマシー」(Entman, 2008)のきわめて重要な手段の一つとして浮上しており、その目的はその国の政策に好意的な国際世論を助長し、「ソフトパワー」と呼ばれる長期的に説得力のある影響力を築くことにある。ジョセフ・ナイ(Joseph Nye)が概念化しているように、ソフトパワーはそれぞれの文化、政治理念、政策に基づく国家が、「強制や報酬ではなく、魅力によって」自らの望む結果を得る能力を指している(2004:X)。

1990年代の放送の民営化と衛星・ケーブル放送ベンチャーの急速な拡散は、トルコにおけるテレビ放送のトランスナショナル化進展の一つの転機となった。1990年代以降、公共放送であるトルコ・ラジオ・テレビ協会(Turkish Radio and Television Corporation, TRT)と主要民間メディア企業は、新しい視聴者層をとくに欧州、中央アジア、中東において開拓するため国際テレビ放送を開始した。これらの地域は、トルコと共通する地理的特徴を有するだけでなく、長年にわたって歴史的、社会的、文化的な類似性を共有してきた。

TRTテレビのトランスナショナル化は、1990年代の故トゥルグト・オザル(Turgot Özal)大統領の時代から、トルコ国家が地政学的に自らの属する地域において進めている積極的な外交政策と平行して進められた。TRTはオザル大統領時代、トルコ移民が離散して暮らす西ヨーロッパの空間 (ディアスポラ的空間)や、ソ連崩壊後に中央アジアに生じた地政学上の戦略的空間を対象とする放送の提供を認められた。2000年代になると、TRTの国境を越える放送は、はじめは中東やバルカン地域の多言語空間を埋めることに追われたが、最近では世界の英語を話す視聴者層へと対象を拡大している。

本論文の目的は、現在の公正発展党(Justice and Development Party, JDP別名AKP)政権の外交政策上の関心およびパブリック・ディプロマシー分野における取り組みを背景に、2000年代のTRTの国境を越えるテレビ放送事業を考察することにある。そして、TRTのウェブサイト、業界や制度に関わる文書、ニュース、特集記事などの二次資料の分析から、TRTの国際事業展開における動機に政府が及ぼしてきた影響について検証する。

本論文では、トルコの地政学上の戦略的利益の増進を図るため、JDPがTRTや国営アナドル通信社(AA)をはじめとする公有または公的管理下にあるメディア組織に影響力を行使してきたことを論証する。2000年代におけるTRTのトランスナショナル放送の拡大は、トルコが戦略的利害を有する主に中東、中央アジア、バルカン地域において、その勢力圏の樹立を目指すJDPの外交政策およびパブリック・ディプロマシー推進努力に密着したものであった。JDPが期待したのは、多言語放送が、トルコ自らの属する地域だけでなくグローバルな舞台でも、より効果的なソフトパワーをトルコが発揮するための基盤となることであった。テレビ放送のトランスナショナル化とその後のテレビ番組輸出の奨励は、国際舞台やグローバルな文化交流において、トルコの存在感と発言力を高めることが目的だった。2013年のゲジ公園における抗議活動を受け、とりわけ2016年7月15日のクーデター未遂事件後、JDPはトルコに対し批判的な姿勢を近年強めている西欧のグローバルニュース提供者による支配に挑戦する手段として、英語のトランスナショナル放送をとりわけ重視している。

TRTは2000年代、JDP政権の全面的な同意の下に、トランスナショナルな事業活動に大規模な投資を行い、コンテンツ制作とマーケティングで攻撃的な戦略を推進し始めた。国内放送の舞台で支配的な地位を失ったTRTは、世界のメディア組織が競い合うリーグ戦におけるトルコからの主要な参加者として、その新たな公共的役割を積極的に受け入れ、JDPのパブリック・ディプロマシーの道具と見られることをほとんど何とも思わなかった。しかし、ナイが指摘するように、ソフトパワーの生成にはグローバルな広がりよりも信頼性や自己批判、市民社会の存在のほうがより重要である(Nye, 2008)。政府の代弁者というイメージは、パブリック・ディプロマシーの手段としてのTRTの能力を弱めるだけでなく、そのトランスナショナルな事業活動についてもトルコ政府の外交政策の変動の影響を受けやすいものにしている。


トルコにおける公共放送の略史

近代トルコ共和国は1923年、ムスタファ・ケマル(Mustafa Kemal)の指導の下、オスマン帝国の遺物の上に成立した。共和国初期の一党支配は1946年まで続き、ケマル主義のエリートたちに社会生活、教育、文化、言語、法律の分野における大改革の実現を可能にする「国家の自律性」(Özbudun, 1986)という考え方をもたらした。ラジオ放送は、進歩的なケマル主義エリートが、オスマン帝国から受け継いだ宗教的共同体から西欧型世俗国家を作り出すために制度化した手段の一つだった(Herper and Sayan, 2012)。

1950年代になるまで、ラジオは複数の異なる国家機関の統制下にあった。「国家による直接かつ絶対的な統制は一党支配のその他の特色と合致するものであった」(Şahin, 1981)が、その一党支配は共和国を創設したエリートたちの共和人民党(Republican People’s Party、RPP)が1950年、民主党(Democratic Party、DP)に敗北を喫して終わりを迎えた。1950年代のDPによるラジオの党利党略的な利用は、1960年に起きた最初のクーデターの結果として、ケマル主義エリートと陸軍がDP政権の打倒を正当化するために持ち出した理由の一つになった。

1964年、ラジオ放送は新たに設立されたトルコ・ラジオ・テレビ協会、すなわちTRTの管轄下に一括して置かれるようになった。TRTの1960年代の最も重要な業績は、1968年の定時テレビ放送の開始であった。1961年憲法によって認められたTRTの自律性は、陸軍がその覚書をもって行った2度目の政治への介入の結果、1971年に無効になった。TRTがその自律性を失うと、政府はTRT幹部の任命、資金調達、番組編成に関して広範な権限を振るうようになった。

1980年の軍事クーデターを受けて、放送に関する法的枠組みは再度変更され、TRTは役員レベルで以前にも増して政府からの圧力にさらされることが多くなった(Çaplı, 1994)。TRT会長は2012年、「(法律には)協会と政府との関係調整は首相を通して行うとするきわめて明確な条項がある。政府に関わることや各省庁についてなされるべきことがあれば、我々はそれを首相に直接報告するか、首相を通じてそれを行う」と述べている(“Rekabet Kurumu Tarafından,” 2012)。

1980年代、テレビ受信器の普及と広告収入の増加により、TRTは大規模な技術投資と放送サービスの拡大を行うことが可能になった。しかし、その官僚的、保守的、エリート主義的な番組編成方針は依然として変わらなかった。長年にわたって、TRTは音声映像コンテンツの制作をアンカラにある本部から厳しく統制し、低俗な趣味であると考えるアラビア風音楽などいくつかの特定の人気の高い文化的表現を全国放送から締め出した。トルコ文化を単一で同質の存在として扱い、その振興を図るTRTの番組は、国の地域的、文化的、民族的、宗教的な多様性を反映するものにはならなかった(Aksoy and Robins, 2000)。

その結果、1990年にヨーロッパからトルコ向けの衛星放送が始まり放送が事実上民営化されると、TRTは深刻な打撃を受けた。最初の民間放送局開設後のきわめて短い間に、TRTはその視聴者のかなりの部分を失っただけでなく、多額の広告収入も失った。放送の民営化により、TRTには視聴者からの支持も政治エリート層の後ろ盾もないということが明らかになった(Çatalbaş, 2000)。

そのため、TRTはその公共放送としての使命を再確認する手段として、ヨーロッパのトルコ人コミュニティに向けて放送を拡大する可能性が生まれたことを歓迎した。最初の国際テレビ放送となったTRT INTは、ヨーロッパ在住のトルコ系移民とより緊密な関係を構築するというトルコの国家戦略の一環として、1990年2月28日に放送を開始した。TRTの番組の中から選ばれた番組を放送するTRT INTは衛星を使って送信され、ドイツ、オランダ、ベルギーのケーブルテレビ網を通じて配信された。その目的は、国外在住のトルコ人とトルコおよびトルコ文化とのきずなを保持すること、これらの人々の教育・文化水準を高めること、トルコおよびトルコ人のイメージを向上させることにあると発表された。

ヨーロッパ在住のディアスポラ的視聴者向けサービスとして始まったテレビ放送は1992年4月27日、オザル大統領の外交政策におけるトルコ主義的な視点に沿って拡大され、中央アジアのテュルク系言語を話す諸国も対象に含まれることになった。しかし、大きな時差や対象とする視聴者間のさまざまな相違点のため、TRTユーラシア(TRT Eurasia)が1993年4月12日に別組織として発足し、独自のサービスを開始した。アクソイとアヴィシ(Aksoy and Avcı)によれば、TRTユーラシアは中央アジアの視聴者に「もし西側に目をやるならば、テュルク系言語を話すイスラム教徒の統一世界がいかに素晴らしいものになるかという可能性」(1992:39)を示すことを目的としていた。しかし、1997年になると、テュルク系言語を話す諸国との関係を担当する大臣は、TRTユーラシアはインド、中国、ロシアとの厳しい競争のなかで効果をあげていないと不満を述べ、TRTの番組編成方針は現地の視聴者を無視していると批判した(Sarıkaya, 1997)。


JDP政権時代の外交政策とパブリック・ディプロマシー、TRTのトランスナショナル化

JDPは2002年、経済繁栄、社会正義、EUへの正式加盟を公約に政権の座に就いた。JDPの戦略はオザルの経済的自由主義と積極的な外交政策を多くの面で引き継いだものだった。連続3期にわたるJDP政権時代、トルコはカリスマ的で非常に人気の高い指導者であるレジェップ・タイイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan)首相の下で、大幅な経済成長と政治的・社会的変化を経験した。

積極的な外交政策は、JDP政権下で行われたトルコの経済的、政治的、文化的転換を方向付ける最も重要な要素であった(Keyman and Gümüşçü, 2014)。2000年代初め、JDPは親EU的な姿勢をとり、トルコ国家の近代化に必要と考えられたEU加盟基準を実現するための措置を講じた。民主化に向けたトルコの断固たる措置と経済実績は、イスラムの価値観が西欧型民主主義と両立することを実証する「トルコ・モデル」として欧米で称賛された。

ヨーロッパから認められようとする2000年代初めのトルコの努力が実った象徴的な出来事は、欧州放送連合(European Broadcasting Union, EBU)の2003年ユーロビジョン・ソング・コンテスト(Eurovision Song Contest)でトルコが史上初めて優勝したことだった。翌年、TRTはイスタンブールで開かれた第49回ユーロビジョン・ソング・コンテストのホストを務め、その模様は台頭しつつあるトルコの姿を誇示する主要なイベントとして36か国に生中継された。2004年12月、EU指導者はトルコとの間で2005年に加盟交渉を始めることに合意した。

しかし、加盟交渉開始後のEU・トルコ関係はほとんど進展しなかった。EU加盟国のなかには交渉の進展を妨害する国もあり、JDP側にも改革アジェンダから徐々に後退する動きが出てきたためである。2009年以降、外相としてアフメト・ダウトオール(Ahmet Davutoğlu)が関わるようになったトルコの外交政策は、グローバルな視野を広げていった。ダウトオールは、トルコの歴史や、中東、バルカン、コーカサス、中央アジア、地中海および黒海が交錯するというユニークな地理的位置から、トルコには「戦略的な奥行き」があると主張した。トルコは地域大国ではなく中核大国であり、それゆえに、交渉とパブリック・ディプロマシーを通じて、地域紛争だけでなくグローバルな紛争の解決のためにも指導的な役割を果たさなければならない、ダウトオールはこう主張した。

ほとんど「新オスマン主義」とも考えられるダウトオールのソフトパワー外交は「近隣諸国とのゼロ・プロブレム」戦略を基づくものであり、トルコが中東の近隣諸国のいくつかとの経済協力を実現するうえで多大な効果があった。中東で実施された複数の世論調査によれば、「紛争の調停者」、新たな「政治・経済大国」、「ロールモデル」として自らをアピールしようとするトルコの努力はそのイメージおよび評判の向上にプラスに働いたことが確認されている(Alankuş and Yanardağoğlu, 2016)。さらに、トルコの国家・非国家アクターによるインドネシアの津波被害者の救済、パキスタンの地震や洪水被害者への支援、ソマリアやエチオピアなどアフリカ諸国への援助の提供といった人道的・建設的な取り組みは、トルコから遠く離れた世界各地において、トルコの地位やエルドアンのイメージを高めた(Akgönenç, 2012)。エルドアンはパレスチナ問題をめぐってイスラエルや国連を厳しく批判したが、このことも中東やイスラム世界全体におけるエルドアンの幅広い人気につながった。2011年にアラブ圏で行われた世論調査の回答者は「最も賞賛する世界のリーダー」としてエルドアンの名前を挙げた(Al-Ghazzi and Kraidy, 2013)。

トルコが国際舞台で自信を深めるのにともない、EU加盟はJDPの外交政策において重要性を失っていくように見えた。トルコ・EU関係が後退するなかで、両者の分かれ目を象徴するもう一つの出来事があった。TRTがユーロビジョン・ソング・コンテストにおける投票方法のルール変更に抗議して、2013年以降コンテストへの参加を拒否したのである。EBUは欧州の5か国に不公正な特権と免除を認めているとするTRTの批判と、国連安全保障理事会の構成に対するエルドアンの批判の間には共通点があるという見方をする人もいた(Cohen Yanarocak, 2012)。

2000年代最初の10年間の終わりごろから、とくに2010年の憲法改正をめぐる国民投票および2011年の総選挙でJDPが勝利を収めた後、JDPの政策は権威主義と社会保守主義に傾き始めた(Akyol, 2016)。エルドアンをはじめとするJDP指導者の言辞は、ほとんどのJDP幹部が育った特徴的な政治的背景、すなわち「強いポピュリズム、反体制メッセージ、ある種の反資本主義レトリックに彩られたイスラム主義運動」を反映するものになり始めた(“Interview: Cihan Tugal,” 2016, April 16)。いわゆる「アラブの春」とシリア戦争でJDPが取った立場は、中東諸国のトルコに対する認識・評価の顕著な低落を招き、2013年のゲジ公園抗議活動に対するエルドアンの強硬な態度や、その後のクルド平和プロセスの崩壊とそれに続く軍事行動は、とくに欧米のメディアや政界に「トルコ・モデル」対する重大な疑問を生むことになった。

2013年のゲジ公園抗議活動は、JDPのリベラリズムの限界をさらしただけでなく、トルコ社会とメディア界で政治的分極化が拡大したことをはっきり示した。2000年代初めから、JDPは民間メディア企業所有者への干渉や公共メディアの主要ポストへの党支持者の任命によって、メディア制度の再構築に成功した。その結果、メディア界は怖気づき委縮する一方の世俗的/自由主義的な民間媒体と、大きくなる一方の親JDP媒体で構成されることになった。TRTとAAは、JDPのプロパガンダ機関になったという野党や市民社会からの抗議の声をよそに、公然と政府と連携した。

2000年代、JDP政権はTRTが積極的な成長戦略を追求し、大規模な技術投資によりすべての放送のデジタル化を進めることを認めた。TRTの放送のトランスナショナル化は、新チャンネルの立ち上げにより全速力で続けられた。1990年代と比べるとはるかに自信を深めた様子のTRTは、最初の全国向け子どもテレビチャンネルを開設し、クルド語とアラビア語による放送を始めた。また、31言語でニュースを伝えるTRTの国際ウェブサイト、http://www.t-world.com/も2008年に開設された。TRTは2009年、ユーロニュース(Euronews)第4位の主要出資者となり、同チャンネルで週7日24時間の放送をトルコ語で行う協定を結んだ。このトルコ語放送は2010年1月に開始された。TRT会長は2012年度年次報告で、TRTはそれまで5年間の努力により、10の衛星を使って放送を行い、15のチャンネルで世界に情報を届ける「真にグローバルな組織」に変わったと述べた(TRT, 2012)。

さらに、TRTはその地域的・国際的存在感を高めるため、外国に新たな支局を開設し、アゼルバイジャン、ギリシャ、アルバニア、北キプロストルコ共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ、バーレーンといった周辺諸国の公共放送やメディア組織と協力関係を築いた。また2012年、南東ヨーロッパの公共放送と提携し、「バルカン戦争からバルカン和平へ」という協力プロジェクトを立ち上げた。これは音楽を通じて共通の歴史的なつながりを示そうというプロジェクトだった。2016年には、サラエボ映画祭に協力して、「ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、コソボ、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニア発の長編フィクション作品」の低予算制作プロジェクトに資金を提供した(“Turkey’s TRT,” 2016)。

TRTは公共メディアの国際フォーラムにも積極的に参加し、ほかの国営パブリック・ディプロマシー機関と協力して共同プロジェクトを実施した。TRTは2016年10月24~31日にイスタンブールで開かれたアジア太平洋放送連合(Asia-Pacific Broadcasting Union, ABU)の第52回総会で同連合の理事会メンバーとなったが、これは「TRTに対する(国際的な)関心と信頼のしるし」であると発表された。2016年、アジア、アフリカ、中東、バルカン44か国のメディア関係者130人以上がトルコのアンタルヤで開かれたTRT主催の国際メディア教育プログラムに参加した。このプログラムは11月21~29日、国際的な人道・開発援助の提供を目的とするトルコで最も古い政府パブリック・ディプロマシー機関であるトルコ国際協力調整庁(Turkish Cooperation and Coordination Agency, TİKA)の支援を受けて実施された。


TRTの国境を越えるテレビチャンネル

TRT放送チャンネルのトランスナショナル化は、JDPが2000年代の初めからトルコの選挙民に約束していた「新しいトルコ」の力を示すものとして、同党からきわめて肯定的に受け止められた。こうしたチャンネルの開設は、JDPがニュース管理を進めるうえで貴重な機会になるとされたのである。政府高官やJDP幹部は仰々しい公式開設式典に出席し、JDP政権の間にどれほどトルコが繁栄し自信を深めたかを強調した。

TRTクルディ(TRT Kurdi)は、TRTが2000年代に開始した一連のトランスナショナル放送の最初のものだった。これはトルコ国内のクルド語を話す市民を対象とした放送だったが、その送信エリアは中東およびヨーロッパのクルド語を話すコミュニティにも及んだ。トルコ初のクルド語テレビ局として、TRT クルディは2009年1月、クルマンジーとソラニーの2方言のほか、ザザキ語でも放送を開始した。TRT クルディの開設は、クルド人の文化的・言語的権利の認知に向けた動きを政治的に象徴する一歩であった。それはまた「トルコの言語と文化の守護者としてのTRTという組織の長い歴史における画期的な出来事でもあった」(Heper and Sayarı, 2012:131)。TRT クルディを「クルド語のファミリー向けチャンネル」と説明するTRTの公式ウェブサイトは、このチャンネルは「わが国の結束と一体性」を目指していると述べた。TRT クルディは、クルド語を話すトルコ人の間に1990年代以降視聴者層を開拓したロジテレビ(Roj TV、旧Med TV)などのトランスナショナル・チャンネルの影響力の弱体化を図るものであった。

2009年3月21日、TRTアバズ(TRT Avaz)が開設された。盛大な式典が行われ、JDP元指導者で当時大統領だったアブドゥラー・ギュル(Abdullah Gül)や、テュルク系言語を使う各国からの高級代表団が出席した。テュルク諸語で「TRTの声」を意味するTRTアバズはノウルーズ(Newroz)の日に放送を開始した。この日は、中央アジアや中東に住む多くの人々にとって立春にあたり、文化的に最も重要な日の一つである。TRTアバズは、バルカン、中央アジア、中東、コーカサスの27か国・13自治区に住む2億5000万人を対象にしている。そして、異なる7か国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、ボスニア・ヘルツェゴビナ、トルコ)に関する番組をそれぞれの言語で制作している。ギュル大統領はこの日の式典で、TRTアバズは「この広大な地域を緊密に結び付け、我々の共通言語とコミュニケーションをさらに高めるだろう」と述べた(Cumhuriyet, 2009, March 21)。

TRTアバズの開設から2か月も経たない2009年5月8日、TRTターク(TRT Turk)と呼ばれるもう一つの無料ニュースチャネルが放送を開始した。当時首相だったエルドアンは開設式典に出席し、エルサレム、モスクワ、ブリュッセルに本拠を置くTRT記者と生中継でメッセージを交わした。開会演説でエルドアンは次のように述べた。「トルコが世界のメディアによって、否定的で悲しいニュースとして報道されことはもうないだろう。TRTタークによって、トルコでは良いことも起こっていること、トルコが急速に変化していること、トルコが世界の希望の星であること、そしてわが国の文化がきわめて豊かであることが理解されるだろう」(“TRT Türk Yayında,” 2009)。TRTの2012年度年次報告は、TRTタークの最も重要な目的の一つは「国際放送事業者の情報操作からトルコ市民を守ること」にあったと認めている。

2012年12月、TRTは大手衛星通信事業者のSESとの間で、TRTタークのテレビ放送と「トルコの声」(Voice of Turkey)のラジオ放送をサハラ以南の視聴者向けに発信する協定に調印した(TRT Turk Selects, 2012)。2015年12月8日、TRT理事会はTRTタークとTRTアバズの放送サービスを一体化して対象地域の地理的範囲を拡大するとともに、公共資源をより効率的に利用するため、両チャンネルを統合することを決めた(“TRT Türk,” 2015)。

2010年4月4日、アラビア語を話す中東の視聴者を対象とするTRTアラビック(TRT Arabic)が本格的な24時間総合チャンネルとして開設された。これはJDPの「中東における歴史的・文化的つながりの増幅を図る積極的な政策」の結果であった(Heper and Sayarı, 2012)。TRTアラビックの放送開始の模様はアル・ジャジーラなどアラブ圏のニュースネットワークで生中継され、エルドアンはトルコ人とアラブ人を「手の指」のような関係にあると言い、「同じ歴史、同じ文化、何よりも同じ文明に属している」と述べた(Al-Ghazzi and Kraidy, 2013)。TRT会長は、この新しいチャンネルの目的は、タークサット3A、アラブサット、ナイルサットという3つの衛星を通じてアラブ世界22か国の3億5000万人に放送を届けることにあると発表した。

TRTアラビックは「ファミリー向けチャンネル」として計画されたが、トルコのビジネス、観光、教育を売り込んだり、トルコの視点を伝えたりするさまざまな番組を放送した。アル・ガッゼとクレイディ(Al-Ghazzi and Kraidy, 2013)によれば、TRTアラビックは、アラブの視聴者に向けた「JDPの魅力攻勢」の一環として、「新オスマン主義を、トルコがヨーロッパであり、イスラムであり、道徳的であり、政治的に影響力があり、経済的に成功しているということを鮮やかに想起させる国家ブランド」に変えたという。つまり、新オスマン主義はクールなブランドになったのである。TRTの2012年度年次報告は、TRTがアラブ世界におけるトルコのソフトパワーに貢献することに意欲的であることを認めている。同報告によれば、「TRTアラビックは、トルコの地域的なパワーの発展と強化のための重要な手段となることを目指しており、地域的な問題においてグローバルなアクターとなった我が国の立場と合致する放送方針を遂行する」という(TRT, 2012)。

TRTは2013年、新しい英語トランスナショナル・チャンネルを立ち上げる計画を発表した。計画はTRT史上で最もコストのかかるプロジェクトになると予想された(Kaya, 2013)。この英語ニュースチャンネルは、2013年夏のゲジ公園抗議活動への対応をめぐる国際メディアの報道が批判的であったことがきっかけとなって開設されたという。「抗議行動を鎮圧するために過度の力が行使されている様子が国際テレビ放送では広く見られ、それがトルコのソフトパワーに影を落とし、トルコの民主化やトルコ・モデルという概念に疑問を抱かせた」(Çevik and Seib, 2015)。大規模な反政府デモに発展したゲジ公園での抗議活動の際、エルドアンは国際的なニュースメディアはトルコに悪意をもっており、外国の陰謀家の術中に陥っていると非難した(Karakaya and Albayrak, 2013)。TRT副会長は、後にTRT ワールド(TRT World)と命名されたこの英語チャンネルについて、「アル・ジャジーラ、BBC、CNNとは違って我々自身の視点から」国際ニュースを伝えると主張した(“İbrahim Eren, TRT”, 2014)。

TRT創立51周年にあたる2015年5月1日、TRT ワールドが自らのニュースサイトを立ち上げた際、TRT会長は、トルコが世界各地で達成したのと同じ競争力をTRTが放送分野で示すためには、グローバルな英語チャンネルが「必要であり、重要である」と述べた(“TRT World’ün Internet”, 2015)。JDP政権の当時の副首相は2015年5月18日のテスト放送の開始にあたって、国際舞台では“イメージ操作戦争”が起きており、トルコは国益を確保しそのイメージと評判を守るため、「あらゆる機関を使って広範なパブリック・ディプロマシー活動を行うこと」を迫られている、と述べた。同副首相の意見によれば、TRT ワールドは、「世界がファイブ(国連安保理の常任理事国5か国を意味する)」よりも大きいことをあらゆる人に見せることになる」という(“TRT World test,” 2015)。

TRT ワールドは2015年10月29日に定時無料放送を開始したが、公式の開設式典は2016年7月15日のクーデター未遂事件の後になって執り行われた。アンカラの大統領宮殿で2016年11月15日に開かれた式典での演説で、エルドアン大統領はトルコのような国にとっては、地域で起きていることを見て見ぬふりをすることはできず、「トルコは2002年以来この事実を念頭に置きながら外交政策の方向づけをしてきた」と述べた(“Cumhurbaşkanı Erdoğan,” 2016)。同大統領は、欧米メディアは公正を欠き、トルコに対し偏見を抱いていると非難し、もしクーデターが成功していたら、「外国メディアはクーデターを正当化していたであろう」と主張した(“TRT World launched,” 2016)。TRT ワールドのニュース担当局長は記者会見で、クーデターの企てをめぐるTRT ワールドのタイムリーで正確な報道が「トルコの立場に反するイメージ操作行動を阻止した」と語った(“TRTWORLD kara propaganda,” 2016)。


国際的な番組販売

国際放送の拡大に加えて、2000年代のトルコの放送のトランスナショナル化を支えたもう一つの重要な展開は、トルコの主要な文化輸出の一つとしてのテレビ連続番組の台頭であった。「2005年から2011年の間に、トルコは3万5675時間分のテレビ連続番組・番組を76か国に輸出した」(Karlıdağ and Bulut, 2014)。輸出先は、主に中央アジア、バルカン、北アフリカ、中東の諸国だった。「アラブの春」の余波で、中東や北アフリカへの番組販売は急落し、トルコの番組制作会社や販売業者は新たな市場探しを余儀なくされた。2015年までに、トルコのテレビドラマははるか南米にまで進出し、「4億5000万人を超える視聴者」のもとへ届けられた(Temeltaş, 2015)。これによる収入は、5年前のわずか4500万米ドルから2015年には3億米ドルに達した(Prensario Internacional, 2016)。

外国メディア向けのトルコのテレビ番組輸出の成功により、全世界の主要市場を横断する120社で構成し、独特のローカル・グローバル軸を中心に活動するエンデモル・シャイン(EndemolShine)のような国際的なテレビ制作会社や販売業者もトルコ市場への参入に関心を寄せるようになった(EndemolShinegroup, n.d.)。ダイナミックで制作本数が多いドラマ産業の存在が認められ、トルコはMIPCOM 2015の主賓国に選ばれた。

テレビ番組輸出の増加は、トルコの文化、伝統、生活様式を国際的に目立たせるのに役立っただけでなく、観光や対外貿易の面でもプラスの影響をもたらした。フライト検索と外国テレビ番組シリーズの間に正の相関関係があることを発見した大手のグローバル旅行検索ウェブサイトのスカイスキャナー(Skyscanner)によると、2011年との比較で「2012年と2013年のトルコへのフライトの検索は、2倍近くに増えた」という。検索数の増加のほとんどは中東諸国で生じたものであった(Deloitte, 2014)。

 トルコのテレビドラマの人気がとくに中東・北アフリカ地域で急上昇したことは、トルコが地政学的な意味で属する地域の内外で、そのソフトパワーに貢献していると受け止められている。英国に本拠を置くシンクタンク「政府研究所」(The Institute for Government)が、2012年に実施したThe New Persuaders Survey によれば、各国のソフトパワーの潜在能力をビジネス・イノベーション、文化、行政、外交、教育という5つの構成要素に基づいて見ると、トルコは40か国中20位であった。この結果は、2010年の第1回調査と比べて、トルコのソフトパワーが「異文化アピールと賢明な位置調整により順位を上げ」続けていることを示した。2012年の調査では、英国と米国がそれぞれ1位と2位になっており、各国のソフトパワーがその国の文化的生産物の質と国際的な展開状況との関連で比較されている(McGlory, 2012)。

 TRTは2009年から、高予算・高品質の番組の委託制作を開始した。その目的は、民間のライバル企業との全国的な視聴率競争を有利に進め、テレビコンテンツの国際市場における売り上げを高めることにあった。TRTの娯楽・子ども番組は世界中のバイヤーが集まるMIPCOM(フランス・カンヌの国際テレビ番組見本市)やイスタンブールDISCOP(テレビコンテンツ・翻案権展示会)などの国際コンテンツ見本市に出展された。トルコの映像コンテンツ制作業界の国際的な成長を支えるため、TRTは2016年4月、トルコでは初めての企業向け上映会を主催し、主に中東、旧ユーゴスラビア、南米の23か国から50人を超えるバイヤーが参加した(Videoage, 2016, May 2)。TRT会長の最近の発表によれば、60か国以上のバイヤーが歴史ドラマ「復活」(Diriliş)の放送権の取得を要望したという。このドラマはTRTのあらたな高視聴率ヒット作品で、オスマン帝国創設者のひとりと考えられているエルトゥールル(Ertugrul)をめぐる物語である(“TRT Genel Müdürü,” 2016)。


おわりに

本論文は、現在のJDP政権がTRTテレビ放送の国際的拡大に及ぼしている影響、およびトルコ国家のグローバルな野心と国際的なプレイヤーを目指すというTRTの新たな使命との間の平行性を検討しようとするものである。そして、二次資料の分析に基づき、TRTが2000年代に入ってからJDPの積極的な外交政策やパブリック・ディプロマシー推進の取り組みに進んで寄与してきたことを論証している。

TRTは2000年代、公共放送としての自らの使命を見直し、放送分野における国際的に認知されたトルコブランドになることを目指した。民間航空の分野で最もよく知られる世界的ブランドの一つとなったトルコ航空の場合と同様である(“Turkey’s Global Ambition,” 2015)。JDPの手厚い支援を受けたTRTは、新たなテレビチャンネルを立上げ、海外支局数を増やし、外国の企業・団体との間で新たな提携関係を築くことによって、国際事業活動の拡大を続けた。また、テレビコンテンツの制作やマーケティングでも積極的な成長戦略をとり始めた。

しかし、TRTには政府の代弁者というイメージは、それが独立したニュース・情報の提供者という役割を徐々に弱め、TRTのトルコ国内での評判を傷つけているだけでなく、国際舞台におけるソフトパワーについても疑問を投げかけている。


註:本稿の大部分は、以前東京で開かれたRIPE@2014 Conferenceに筆者が提出した論文をもとにまとめたものである。同論文はその後日本語に翻訳され、慶応義塾大学出版会から2015年刊行された山本信人監修の『ジャーナリズムの国籍』に掲載されている。


参考資料


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ディルルバ・チャタルバシュ・ユルペル

ガラタサライ大学コミュニケーション学部教授・博士


著者略歴
ディルルバ・チャタルバシュ・ユルペル
ガラタサライ大学 ジャーナリズム学教授

リーズ大学コミュニケーション研究所 修士号取得
ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ コミュニケーション学 Ph.D取得

関心分野はジャーナリズム、政治経済学、メディア規制、公共放送、ニューメディアなど。

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