第20回 JAMCOオンライン国際シンポジウム
2012年3月~8月
東日本大震災、テレビは海外にどう伝え、海外はどう受けとめたのか
韓国メディアは、3.11とどう向き合ったか
2011年3月11日の東日本大震災は、韓国でも衝撃を持って受け止められた。KBSは、地震発生直後から、ライブで特別放送をした。KBSでは、日本で大きなニュースが発生した場合、そのままライブで放送することになっていたが、今回の震災は、まさにその時であり、北朝鮮軍による延坪島攻撃のときのような重大さで報道することとなった。
3月11日の夜、KBSでは通常番組は飛ばし、特別編成で震災関連情報を流し続けた。特に津波が押し寄せる映像が度々流され、その後、原発問題に焦点をあてて放送することになった。
韓国のメディアにおける東日本大震災の報道に関して、日本のメディアとの対比で顕著なのは、津波が押し寄せる映像に代表される刺激的な映像が、何度となく放送されたことである。日本では、抑えめの報道になっていたようだが、やや刺激的な表現が多かったのは確かであろう。
例えば、3月11日の地上波ニュースの見出しは次のようだった。「日本列島 焦土化」 、「慘酷な現場」、「津波强打」、「阿鼻叫喚」、「大混亂」…。それから衝撃的な映像も何度も繰り返し放送された。韓国の放送を見たら、東日本だけではなくて、西日本を含めて、まるで日本全体が危ない状況に落ち込んでいると感じられる表現ばかりだった。
それは、テレビニュースでは、映像で表現することが一番と考えるからである。映像の影響力が強いことはもちろん理解しているし、また、視聴率に影響を与える可能性があることも認識している。しかし、そのようなことよりも、テレビ放送においては、映像により現実を伝えることが求められるべきと考えたからである。
もちろんそれは、同様の災害が韓国であっても、私たちは同じように判断するだろう。
韓国では、日本のように地震や津波のような災害は、あまりないが、大火災や台風が来たとき、そのニュース映像では、死体そのものものといった映像でもない限り、ちょっと刺激的な映像でも、そのまま使ってしまう。
今回の3.11の報道において、韓国のメディアは、あくまでも隣国の災害として報じていた。自分の国で起きた話ではない、外部の目から見ていたことが特徴と言えるだろう。韓国メディアの中にあっても、今回の震災は、やはり、直接的に自分の国で起きたことではないので、第三者の目、外部の目から、映画、映像を見ている感覚あった。
今回の震災に関する韓国メディアの報道については、すでに韓国国内でいくつかのシンポジウムが行われているのだが、そこでしばしば指摘されているのが、韓国メディアは、今回の地震に関するストレート・ニュースをメインにして流してきた。「発生もの」「経過もの」が多かった。他方で、震災で露見した問題の原因や、その背後にある問題などは、あまり放送していないということが指摘されている。 そのような批判はあるものの、一応は、隣の国で起きた大きな災害を、迅速、かつ、正確に報道することはできたと考える。
<日本のメディアと海外メディア>
東京支局での取材、レポートにあたっては、日本のテレビ各局のニュースをチェックしたが、他には、特に米国とドイツのメディアの報道を参考にした。特に、原発問題に関しては、米国とドイツの放送局のニュースや資料がたいへん参考になった。 日本の放送局が流す映像は、抑制的であったということは、しばしば指摘されているところであるが、KBSは、NHKと協定を結んでおり、NHKの映像を借用して、レポートを送った。その際に改めて問題となったのはインターネットの普及である。インターネットというネットワークの整備、普及により、市民レベルでの発言や映像が、国境を越えて展開するようになった。これにより、反射してメッセージが届くということも起こっていた。
ただ、韓国では、市民レベルで撮った映像が、インターネットのニュースサイトなどで流れ、それを既存の放送局のニュース番組で取り上げるといったことが、少なからず起こっている。
韓国で流された放送がネット上に流れ、それらの映像を日本でネットを利用する人がアクセスする状況のなかで、今回の震災の伝え方として、比較的ストレートな表現が多かった韓国の放送局の番組と、抑制的だった日本の放送局の番組とのギャップが、日本の視聴者の間で問題になり、日本のメディアに対する不信感に結びついたのだと考える。
ただ、インターネットが普及する現代のメディア状況のなかにあっては、このような状況を、もう抑制することは出来ないのではないかと考える。
韓国の人たちも、BBCの報道などをインターネットなどでチェックしており、それらの影響で、野犬化する福島の犬の映像をレポートにして送って欲しいといった要望が東京支局の方に届けられる。このような要望は、得てして過剰な映像を求める傾向のあったこともまた確かである。これもインターネットの影響と言えるのかも知れない。
<原子力発電所問題とメディア>
今回、日本の原発問題を報道することは、韓国のエネルギー政策にも向き合うことになるわけだが、原発問題を報ずるにあたって、最重要視したのは、原発の安全性の問題であった。原発取材を通して、エネルギー問題を考えれば考えるほど、「今すぐ原発を全部止めるように」と断言するのは難しい。しかし、他方で、やっぱりエネルギー問題で、最も大事なのは安全性なのだということも再認識をさせられた。今回、福島原発の問題が発生したことによって、韓国国内でも、原発の安全性の問題を、改めて再認識するようになったのである。 加えて、原発の取材をしながら感じたことは、原子力発電所というのは、さまざまな歴史的経緯を内在したまま、今日に至っているということである。例えば、原発を建てたころは、地質学的に地盤の固い安全なところだったわけだが、現在、再び地質の調査をすると、地震が起きやすいところとなっているといった問題が、改めて確認されるということがある。
また、核廃棄物処理問題では、日本で進められている青森県六ヶ所村での計画があるが、この計画というのは、日本の核武装と関係があるんじゃないかという噂話には、韓国メディアは、過敏にならざるを得ない。
それは、歴史的な経緯から、韓国内に日本の核武装に対する強い懸念があり、それゆえに、日本の核開発政策に対して、この核武装論と連動して議論をしやすい土壌が、韓国の視聴者、または、韓国の政治に関わる人たちにはある。もちろん、日本のなかでも、日本の核開発政策と核武装とを結びつけて論ずる人は、極めて少ないが、ごく一部の政治家や右翼団体に、このような意見があることも確かだ。
<日本メディアの3.11報道>
東日本大震災が発生し、最初に感じたことは、その大混乱のなかにあって、日本の主要メディアが、非常に落ち着いて報道していることであった。この落ち着いた対応に関しては、非常に感動をした。このような状況のなかにあって、しっかりと正確に報道していることの凄さ、正確な報道に務めようとしているその姿勢は、高く評価したい。
しかし、もしこのようなことが起きたら、次には何が起きるといったシュミレーションや、最悪のシナリオはどんなことが起きうるといった予測報道が少ないのも特徴だった。そのことは、海外の報道機関に勤める者として戸惑ったところでもある。「いまのところ安全」とか、「ただちに問題ない」というコメントがたびたび付け加えられる報道は、逆に少し不安な印象を受けてしまう。それは、一般の視聴者も同じであろう。
震災発生後、津波の到来による被害や原発問題などいろいろなニュース素材があったわけだが、特に原発問題に関していえば、問題発生当初から指摘された政府と電力会社との癒着の問題については、その後1年近く経ったいまも、結局、日本のジャーナリズムによって深掘りがされないまま、今日まで来てしまっているのではないか。そこには、日本の政治経済の本質的な構造問題があるために、取材が難しいのかも知れないが、他方において、日本の主要メディアは、この問題に関して深く食い込み、追求していくことを、あえて避けているのではないかという疑念を抱いてしまう。
日本のメディア状況を眺めてみると、一部の雑誌やウェブなどでは、このあたりの問題に関して、いろいろ書かれているものは存在する。もちろんその信憑性の問題はあるのかも知れないが、それらの記事やレポートがこれらのメディアに載ることによって、相対的に日本の主要メディアの引いた態度が際立って目立っていたのが印象的であった。
では、なぜ日本の主要メディアはこのような態度を取るのか。
例えば、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の件では、確実に資料があるにもかかわらず、それが迅速に政府から公表されなかったことに対して、主要メディアからもいろいろな批判がなされたと思う。しかし、このSPEEDIの件以外に関しても、原発問題においては、東京電力と政府とのもたれ合いとも言える関係性について、特に日本の主要メディアは、はっきりと問題を指摘し、顕在化させるという作業を避けている部分が多いように思えるのである。
<3.11に見る日韓メディアの違い>
それは、日本の主要メディアが、複数の関係者から確実な証言が得られないと記事にできないという慣習が染みこんでいるからかも知れない。韓国の主要メディアでは、確実な証言が積み上げられなくても、突っ込めるところまで突っ込んでいく。視聴者にとって、そのニュースが有益なのであれば、放送してしまうこともままある。しかし、日本の主要メディアでは、それはしないのだとは思う。
例えば、韓国で口蹄病の問題が起きた時には、比較的早い段階から、言論機関と市民運動とが連携して、口蹄病に対する政府の対応を厳しく批判していった。メディアと市民との動きが共鳴することで、そのエネルギーが増幅し、政府も追い詰められていった。翻って、日本では、そのようなことは起きにくいという印象を持っている。
韓国のジャーナリズムに身を置く者からすれば、日本では新聞テレビといった主要メディアと、雑誌などのメディアとが役割分担しているような印象を受ける。この分析が正確かどうかは、議論すべきところだが、日本の主要メディアでは、「発表もの」を中心にニュースが作られている。それは、正確な情報を提供するということではより効率的なのかも知れない。しかし、それでは物足りない部分が生ずる。雑誌など、非主要メディアにあっては、主要メディアで報じなかった部分を、踏み込んででも伝えようとしていると考える。結果、主要メディアの提供するニュースは、正確性は担保されるかも知れないが、視聴者からすれば、少し物足りないと感ずるのではないか。 韓国のメディアから見ると、日本の主要メディアは慎重なのだと思う。ジャーナリズムとして主要メディアがあるべきか、どういう機能をすべきかは議論のあるところだろう。
<3.11とメディアの役割の揺らぎ>
東日本大震災は、私たちジャーナリズムのあり方、ジャーナリストのあり方についても、多くの課題や可能性を投げかけたと考えている。 これまでも、世界各地で大事件や大きな出来事はいろいろあった。20年前の東ヨーロッパの体制崩壊や、最近でいえばスマトラ大地震など、全世界的な大ニュースがあった場合、放送は現地からその状況を伝えてきた。しかし、その被災状況が、赤裸々に全世界の放送に直接放送されたということでは、今回の東日本大震災の報道のインパクトは、非常に大きかったのではなかろうか。もちろんその背景にあるのは、放送技術の進展、放送メディアの発達があるだろう。
10年前の米国の同時多発テロの時も、事件発生直後の早い段階からライブ中継されたが、今回の地震のように、津波が社会生活を営む場を飲み込んでいくという状況そのものを、全世界がライブで映像を見ることが出来たということはなかったと思う。
加えてメディアが、地震とか津波といった被害状況を俯瞰して提示していくだけでなく、メディアがその被災地のなかに分け入って、そこで起こっている出来事をそのまま世界に伝えた。言うなれば、被災したいろいろな面を見せたのではなかろうか。その点は、これまでの大災害や大事故の報道とは明らかに異なると言えるのではなかろうか。
このことから、私たちジャーナリストが学んだことは多い。
3月11日の夜、KBSでは通常番組は飛ばし、特別編成で震災関連情報を流し続けた。特に津波が押し寄せる映像が度々流され、その後、原発問題に焦点をあてて放送することになった。
韓国のメディアにおける東日本大震災の報道に関して、日本のメディアとの対比で顕著なのは、津波が押し寄せる映像に代表される刺激的な映像が、何度となく放送されたことである。日本では、抑えめの報道になっていたようだが、やや刺激的な表現が多かったのは確かであろう。
例えば、3月11日の地上波ニュースの見出しは次のようだった。「日本列島 焦土化」 、「慘酷な現場」、「津波强打」、「阿鼻叫喚」、「大混亂」…。それから衝撃的な映像も何度も繰り返し放送された。韓国の放送を見たら、東日本だけではなくて、西日本を含めて、まるで日本全体が危ない状況に落ち込んでいると感じられる表現ばかりだった。
それは、テレビニュースでは、映像で表現することが一番と考えるからである。映像の影響力が強いことはもちろん理解しているし、また、視聴率に影響を与える可能性があることも認識している。しかし、そのようなことよりも、テレビ放送においては、映像により現実を伝えることが求められるべきと考えたからである。
もちろんそれは、同様の災害が韓国であっても、私たちは同じように判断するだろう。
韓国では、日本のように地震や津波のような災害は、あまりないが、大火災や台風が来たとき、そのニュース映像では、死体そのものものといった映像でもない限り、ちょっと刺激的な映像でも、そのまま使ってしまう。
今回の3.11の報道において、韓国のメディアは、あくまでも隣国の災害として報じていた。自分の国で起きた話ではない、外部の目から見ていたことが特徴と言えるだろう。韓国メディアの中にあっても、今回の震災は、やはり、直接的に自分の国で起きたことではないので、第三者の目、外部の目から、映画、映像を見ている感覚あった。
今回の震災に関する韓国メディアの報道については、すでに韓国国内でいくつかのシンポジウムが行われているのだが、そこでしばしば指摘されているのが、韓国メディアは、今回の地震に関するストレート・ニュースをメインにして流してきた。「発生もの」「経過もの」が多かった。他方で、震災で露見した問題の原因や、その背後にある問題などは、あまり放送していないということが指摘されている。 そのような批判はあるものの、一応は、隣の国で起きた大きな災害を、迅速、かつ、正確に報道することはできたと考える。
<日本のメディアと海外メディア>
東京支局での取材、レポートにあたっては、日本のテレビ各局のニュースをチェックしたが、他には、特に米国とドイツのメディアの報道を参考にした。特に、原発問題に関しては、米国とドイツの放送局のニュースや資料がたいへん参考になった。 日本の放送局が流す映像は、抑制的であったということは、しばしば指摘されているところであるが、KBSは、NHKと協定を結んでおり、NHKの映像を借用して、レポートを送った。その際に改めて問題となったのはインターネットの普及である。インターネットというネットワークの整備、普及により、市民レベルでの発言や映像が、国境を越えて展開するようになった。これにより、反射してメッセージが届くということも起こっていた。
ただ、韓国では、市民レベルで撮った映像が、インターネットのニュースサイトなどで流れ、それを既存の放送局のニュース番組で取り上げるといったことが、少なからず起こっている。
韓国で流された放送がネット上に流れ、それらの映像を日本でネットを利用する人がアクセスする状況のなかで、今回の震災の伝え方として、比較的ストレートな表現が多かった韓国の放送局の番組と、抑制的だった日本の放送局の番組とのギャップが、日本の視聴者の間で問題になり、日本のメディアに対する不信感に結びついたのだと考える。
ただ、インターネットが普及する現代のメディア状況のなかにあっては、このような状況を、もう抑制することは出来ないのではないかと考える。
韓国の人たちも、BBCの報道などをインターネットなどでチェックしており、それらの影響で、野犬化する福島の犬の映像をレポートにして送って欲しいといった要望が東京支局の方に届けられる。このような要望は、得てして過剰な映像を求める傾向のあったこともまた確かである。これもインターネットの影響と言えるのかも知れない。
<原子力発電所問題とメディア>
今回、日本の原発問題を報道することは、韓国のエネルギー政策にも向き合うことになるわけだが、原発問題を報ずるにあたって、最重要視したのは、原発の安全性の問題であった。原発取材を通して、エネルギー問題を考えれば考えるほど、「今すぐ原発を全部止めるように」と断言するのは難しい。しかし、他方で、やっぱりエネルギー問題で、最も大事なのは安全性なのだということも再認識をさせられた。今回、福島原発の問題が発生したことによって、韓国国内でも、原発の安全性の問題を、改めて再認識するようになったのである。 加えて、原発の取材をしながら感じたことは、原子力発電所というのは、さまざまな歴史的経緯を内在したまま、今日に至っているということである。例えば、原発を建てたころは、地質学的に地盤の固い安全なところだったわけだが、現在、再び地質の調査をすると、地震が起きやすいところとなっているといった問題が、改めて確認されるということがある。
また、核廃棄物処理問題では、日本で進められている青森県六ヶ所村での計画があるが、この計画というのは、日本の核武装と関係があるんじゃないかという噂話には、韓国メディアは、過敏にならざるを得ない。
それは、歴史的な経緯から、韓国内に日本の核武装に対する強い懸念があり、それゆえに、日本の核開発政策に対して、この核武装論と連動して議論をしやすい土壌が、韓国の視聴者、または、韓国の政治に関わる人たちにはある。もちろん、日本のなかでも、日本の核開発政策と核武装とを結びつけて論ずる人は、極めて少ないが、ごく一部の政治家や右翼団体に、このような意見があることも確かだ。
<日本メディアの3.11報道>
東日本大震災が発生し、最初に感じたことは、その大混乱のなかにあって、日本の主要メディアが、非常に落ち着いて報道していることであった。この落ち着いた対応に関しては、非常に感動をした。このような状況のなかにあって、しっかりと正確に報道していることの凄さ、正確な報道に務めようとしているその姿勢は、高く評価したい。
しかし、もしこのようなことが起きたら、次には何が起きるといったシュミレーションや、最悪のシナリオはどんなことが起きうるといった予測報道が少ないのも特徴だった。そのことは、海外の報道機関に勤める者として戸惑ったところでもある。「いまのところ安全」とか、「ただちに問題ない」というコメントがたびたび付け加えられる報道は、逆に少し不安な印象を受けてしまう。それは、一般の視聴者も同じであろう。
震災発生後、津波の到来による被害や原発問題などいろいろなニュース素材があったわけだが、特に原発問題に関していえば、問題発生当初から指摘された政府と電力会社との癒着の問題については、その後1年近く経ったいまも、結局、日本のジャーナリズムによって深掘りがされないまま、今日まで来てしまっているのではないか。そこには、日本の政治経済の本質的な構造問題があるために、取材が難しいのかも知れないが、他方において、日本の主要メディアは、この問題に関して深く食い込み、追求していくことを、あえて避けているのではないかという疑念を抱いてしまう。
日本のメディア状況を眺めてみると、一部の雑誌やウェブなどでは、このあたりの問題に関して、いろいろ書かれているものは存在する。もちろんその信憑性の問題はあるのかも知れないが、それらの記事やレポートがこれらのメディアに載ることによって、相対的に日本の主要メディアの引いた態度が際立って目立っていたのが印象的であった。
では、なぜ日本の主要メディアはこのような態度を取るのか。
例えば、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の件では、確実に資料があるにもかかわらず、それが迅速に政府から公表されなかったことに対して、主要メディアからもいろいろな批判がなされたと思う。しかし、このSPEEDIの件以外に関しても、原発問題においては、東京電力と政府とのもたれ合いとも言える関係性について、特に日本の主要メディアは、はっきりと問題を指摘し、顕在化させるという作業を避けている部分が多いように思えるのである。
<3.11に見る日韓メディアの違い>
それは、日本の主要メディアが、複数の関係者から確実な証言が得られないと記事にできないという慣習が染みこんでいるからかも知れない。韓国の主要メディアでは、確実な証言が積み上げられなくても、突っ込めるところまで突っ込んでいく。視聴者にとって、そのニュースが有益なのであれば、放送してしまうこともままある。しかし、日本の主要メディアでは、それはしないのだとは思う。
例えば、韓国で口蹄病の問題が起きた時には、比較的早い段階から、言論機関と市民運動とが連携して、口蹄病に対する政府の対応を厳しく批判していった。メディアと市民との動きが共鳴することで、そのエネルギーが増幅し、政府も追い詰められていった。翻って、日本では、そのようなことは起きにくいという印象を持っている。
韓国のジャーナリズムに身を置く者からすれば、日本では新聞テレビといった主要メディアと、雑誌などのメディアとが役割分担しているような印象を受ける。この分析が正確かどうかは、議論すべきところだが、日本の主要メディアでは、「発表もの」を中心にニュースが作られている。それは、正確な情報を提供するということではより効率的なのかも知れない。しかし、それでは物足りない部分が生ずる。雑誌など、非主要メディアにあっては、主要メディアで報じなかった部分を、踏み込んででも伝えようとしていると考える。結果、主要メディアの提供するニュースは、正確性は担保されるかも知れないが、視聴者からすれば、少し物足りないと感ずるのではないか。 韓国のメディアから見ると、日本の主要メディアは慎重なのだと思う。ジャーナリズムとして主要メディアがあるべきか、どういう機能をすべきかは議論のあるところだろう。
<3.11とメディアの役割の揺らぎ>
東日本大震災は、私たちジャーナリズムのあり方、ジャーナリストのあり方についても、多くの課題や可能性を投げかけたと考えている。 これまでも、世界各地で大事件や大きな出来事はいろいろあった。20年前の東ヨーロッパの体制崩壊や、最近でいえばスマトラ大地震など、全世界的な大ニュースがあった場合、放送は現地からその状況を伝えてきた。しかし、その被災状況が、赤裸々に全世界の放送に直接放送されたということでは、今回の東日本大震災の報道のインパクトは、非常に大きかったのではなかろうか。もちろんその背景にあるのは、放送技術の進展、放送メディアの発達があるだろう。
10年前の米国の同時多発テロの時も、事件発生直後の早い段階からライブ中継されたが、今回の地震のように、津波が社会生活を営む場を飲み込んでいくという状況そのものを、全世界がライブで映像を見ることが出来たということはなかったと思う。
加えてメディアが、地震とか津波といった被害状況を俯瞰して提示していくだけでなく、メディアがその被災地のなかに分け入って、そこで起こっている出来事をそのまま世界に伝えた。言うなれば、被災したいろいろな面を見せたのではなかろうか。その点は、これまでの大災害や大事故の報道とは明らかに異なると言えるのではなかろうか。
このことから、私たちジャーナリストが学んだことは多い。
金 泂奭
KBS東京支局 特派員