第19回 JAMCOオンライン国際シンポジウム
2010年2月1日~2月28日
ドラマ映像の国際交流
[総括討議] テレビドラマと国際理解 ~ 日本製テレビドラマの潜在的可能性
「クールジャパン」というコトバの流行に象徴されるように、近年、日本のポピュラーカルチャーは海外から注目、受け入れられるようになったものの、日本国内におけるポピュラーカルチャーの中心的な担い手であるテレビ番組に関しては、海外での注目度は著しく低いと言わざるを得ない。
日本においてテレビ放送は、戦後の日本経済の成長とともに発展するとともに、そのポピュラーカルチャーの重要な担い手として、戦後日本の大衆消費社会に重要な役割を果たしてきたことは言うまでもない。
しかし、日本文化の国際的な展開ということでは、日本のポピュラーカルチャーの代表たるテレビ番組は、そのプレゼンスを示すことなく、今日に至っている。
この点に関しては、日本文化の海外発信支援の一環としてテレビ番組の流通促進の支援策が貧弱であったのだと、日本の海外に向けた文化戦略的な発想の貧困さにその原因を求め、日本政府の国際広報政策を批判する声がある一方で、国際テレビ番組市場という自由競争市場のなかで、日本製のテレビ番組がどれだけ市場性があるのかという検証は、思いの外なされてこなかった。その背景には、日本製のテレビ番組は、端から国際競争力を持ち得ないとの先入観がテレビ関係者にも、メディア研究者にも、そして、一般の人々にもあったのではなかろうか。
しかし、世界第2位のGDPを誇る日本経済の下でビジネスが成り立っている日本のテレビ番組の制作システムは、国際的に見ても十分に洗練されたものであることは疑いようもない。とすれば、日本のテレビ番組がビジネス・ベースで国際的な展開を活発にし得なかった原因はどこにあったのかを探ることは、テレビ番組の国際的な流通の促進、テレビ文化を通した国際理解の促進のためのヒントを得ることになるのではないか。
このような問題認識に立ち、本シンポジウムでは、近年の国際的なテレビ番組流通の現状と課題を検証するにあたり、メディア・ビジネスの環境の変化を視野に入れながらも、あえて論議を拡散させないために、日本製のテレビドラマの国際展開にフォーカスをして議論を進めた。特に、メディア研究者のみならず、テレビドラマの国際的な流通に関わる実務者にもご登壇いただき、それぞれのお立場から、その問題点・課題と可能性を論じていただいた。
その論議を振り返ってみると、重村氏は、国内市場完結型であった日本のテレビ・ビジネスの構造的な問題を指摘した上で、日本製テレビドラマの海外市場での流通を活性化させるために必要な方策について、具体的に指摘されている。樋泉氏は、北海道テレビという地方民間放送局が取り組んできた国際的な展開過程を報告。経営環境の厳しい地方民放局が、自社制作ドラマを含むテレビ番組を海外に発信し続けてきた。東京発の「日本の姿」とは一線を画した多様な「日本の姿」を電波に乗せることで、北海道への台湾からの観光客が急増するなど、北海道を海外に知らしめることに一役買ったとされる。
また黄教授は、1990年代後半以降、北東アジアを中心に韓国ドラマの国際流通の急増したいわゆる「韓流」現象を振り返り、この「韓流」現象を支えた韓国のコンテンツ産業の特質を踏まえながら、その対比のなかで、日本のテレビドラマの国際市場におけるコンテンツ・パワーについて考察している。崔教授も、急速な成長が著しい中国のテレビ産業の状況を念頭に置きながら、中国テレビ市場における日本製テレビドラマの潜在的可能性について検証している。両者とも、北東アジアにおいて影響力を持つ日本のテレビ番組が、この文化圏において多くの可能性を内包していることに注目している。
村中氏は、シンジケーション市場やケーブルテレビなどの多様な番組流通システムを開発することで発展してきた米国のテレビ番組市場の発展過程を振り返るとともに、海外番組に対する米国市場の特質を整理。その上で、近年の海外番組に対する米国テレビ番組市場の需要の高まりを考察し、日本製テレビドラマの進出の可能性を論じている。
メディア研究者でもテレビ番組流通の実務家でもある沈氏は、他の登壇者とは視点を変えて、国際的なテレビ番組流通活性化に向けた政策手法の有用性、並びに、ブロードバンド網の高度化に象徴されるメディア環境の変化による番組流通システムの構造的変革の可能性と課題について論点を提示している。
このシンポジウムの論議を振り返ると、結果的により顕在化してきたのは、日本のテレビドラマが、国際テレビ番組市場において、その流通力はもちろん、市場での説得力、並びにその市場戦略性が構造的に低くならざる得ない状況であり続けてきたことを検証することとなった。日本のテレビ番組が、国際市場で展開を図るのであれば、日本のテレビ・ビジネスの構造的な変革を志向せざるを得ないであろう。もちろん、そのことによってもたらされるであろう政治的・経済的・文化的な発展・交流の可能性に期待を込めての指摘・発言であった。 しかし、シンポジウムで出されたこれまでの論議は、決して日本のテレビ市場の発展にのみ資するための論議に留まるものではない。むしろ、そこから見えてきたのは、米国製のテレビドラマが他を圧倒する形で市場競争力を堅持し続けてきた国際テレビ番組市場が、自由な経済活動の下で、より多様性・多元性を確保した発展をしていくための行程に、多くの示唆を与えたのではなかろうか。
もちろん本シンポジウムでは、国際的な流通を経たテレビドラマの受容過程に関する論議にまでは、十分に踏み込めなかった。
「テレビドラマ」を含むポピュラーカルチャーの解釈というものは、多義的なものである。それゆえにポピュラーカルチャーは、魅力的だとも言える。1980年代以降、学問的な流行とすらなったカルチュラル・スタディにおける論議を引くまでもなく、ポピュラーカルチャーの文化的な価値はもちろん、政治的・社会的な価値や意味を検証することが、現代社会の構造的な問題の一端を解き明かすことにつながるとの認識は広く共有されつつある。ポピュラーカルチャーの一翼を担うテレビ番組に関しても、VTRが普及したこともあり、テレビ番組のコンテクストを読み解くことで、現代社会の構造的問題を炙り出そうとする研究が、各国で見られるようになって来た。
国際的なテレビ番組流通においては、その解釈の元となる視聴者の文化的な背景も異なり、より多様な解釈が生まれることとなる。それゆえに国境を越えてやってきた日本のテレビドラマという日本の文化的背景のなかで生成された表現物が、どのような文化的な背景のもとで受容され、どのような意味解釈がなされていくのかを検証していくことは、日本という社会を考える際でも、その受容された社会を考える際でも、多くのヒントを投げかけてくれるのではなかろうか。それらの受容過程に関する論議については、場を改めて行えればと思う。
登壇者はもちろん、ウェブ・シンポジウムという特性を生かして、ここでの論議に関心を持ち、また、ご意見をくださった世界各地の皆さま。本シンポジウムにご参加いただき、ありがとうございました。
日本においてテレビ放送は、戦後の日本経済の成長とともに発展するとともに、そのポピュラーカルチャーの重要な担い手として、戦後日本の大衆消費社会に重要な役割を果たしてきたことは言うまでもない。
しかし、日本文化の国際的な展開ということでは、日本のポピュラーカルチャーの代表たるテレビ番組は、そのプレゼンスを示すことなく、今日に至っている。
この点に関しては、日本文化の海外発信支援の一環としてテレビ番組の流通促進の支援策が貧弱であったのだと、日本の海外に向けた文化戦略的な発想の貧困さにその原因を求め、日本政府の国際広報政策を批判する声がある一方で、国際テレビ番組市場という自由競争市場のなかで、日本製のテレビ番組がどれだけ市場性があるのかという検証は、思いの外なされてこなかった。その背景には、日本製のテレビ番組は、端から国際競争力を持ち得ないとの先入観がテレビ関係者にも、メディア研究者にも、そして、一般の人々にもあったのではなかろうか。
しかし、世界第2位のGDPを誇る日本経済の下でビジネスが成り立っている日本のテレビ番組の制作システムは、国際的に見ても十分に洗練されたものであることは疑いようもない。とすれば、日本のテレビ番組がビジネス・ベースで国際的な展開を活発にし得なかった原因はどこにあったのかを探ることは、テレビ番組の国際的な流通の促進、テレビ文化を通した国際理解の促進のためのヒントを得ることになるのではないか。
このような問題認識に立ち、本シンポジウムでは、近年の国際的なテレビ番組流通の現状と課題を検証するにあたり、メディア・ビジネスの環境の変化を視野に入れながらも、あえて論議を拡散させないために、日本製のテレビドラマの国際展開にフォーカスをして議論を進めた。特に、メディア研究者のみならず、テレビドラマの国際的な流通に関わる実務者にもご登壇いただき、それぞれのお立場から、その問題点・課題と可能性を論じていただいた。
その論議を振り返ってみると、重村氏は、国内市場完結型であった日本のテレビ・ビジネスの構造的な問題を指摘した上で、日本製テレビドラマの海外市場での流通を活性化させるために必要な方策について、具体的に指摘されている。樋泉氏は、北海道テレビという地方民間放送局が取り組んできた国際的な展開過程を報告。経営環境の厳しい地方民放局が、自社制作ドラマを含むテレビ番組を海外に発信し続けてきた。東京発の「日本の姿」とは一線を画した多様な「日本の姿」を電波に乗せることで、北海道への台湾からの観光客が急増するなど、北海道を海外に知らしめることに一役買ったとされる。
また黄教授は、1990年代後半以降、北東アジアを中心に韓国ドラマの国際流通の急増したいわゆる「韓流」現象を振り返り、この「韓流」現象を支えた韓国のコンテンツ産業の特質を踏まえながら、その対比のなかで、日本のテレビドラマの国際市場におけるコンテンツ・パワーについて考察している。崔教授も、急速な成長が著しい中国のテレビ産業の状況を念頭に置きながら、中国テレビ市場における日本製テレビドラマの潜在的可能性について検証している。両者とも、北東アジアにおいて影響力を持つ日本のテレビ番組が、この文化圏において多くの可能性を内包していることに注目している。
村中氏は、シンジケーション市場やケーブルテレビなどの多様な番組流通システムを開発することで発展してきた米国のテレビ番組市場の発展過程を振り返るとともに、海外番組に対する米国市場の特質を整理。その上で、近年の海外番組に対する米国テレビ番組市場の需要の高まりを考察し、日本製テレビドラマの進出の可能性を論じている。
メディア研究者でもテレビ番組流通の実務家でもある沈氏は、他の登壇者とは視点を変えて、国際的なテレビ番組流通活性化に向けた政策手法の有用性、並びに、ブロードバンド網の高度化に象徴されるメディア環境の変化による番組流通システムの構造的変革の可能性と課題について論点を提示している。
このシンポジウムの論議を振り返ると、結果的により顕在化してきたのは、日本のテレビドラマが、国際テレビ番組市場において、その流通力はもちろん、市場での説得力、並びにその市場戦略性が構造的に低くならざる得ない状況であり続けてきたことを検証することとなった。日本のテレビ番組が、国際市場で展開を図るのであれば、日本のテレビ・ビジネスの構造的な変革を志向せざるを得ないであろう。もちろん、そのことによってもたらされるであろう政治的・経済的・文化的な発展・交流の可能性に期待を込めての指摘・発言であった。 しかし、シンポジウムで出されたこれまでの論議は、決して日本のテレビ市場の発展にのみ資するための論議に留まるものではない。むしろ、そこから見えてきたのは、米国製のテレビドラマが他を圧倒する形で市場競争力を堅持し続けてきた国際テレビ番組市場が、自由な経済活動の下で、より多様性・多元性を確保した発展をしていくための行程に、多くの示唆を与えたのではなかろうか。
もちろん本シンポジウムでは、国際的な流通を経たテレビドラマの受容過程に関する論議にまでは、十分に踏み込めなかった。
「テレビドラマ」を含むポピュラーカルチャーの解釈というものは、多義的なものである。それゆえにポピュラーカルチャーは、魅力的だとも言える。1980年代以降、学問的な流行とすらなったカルチュラル・スタディにおける論議を引くまでもなく、ポピュラーカルチャーの文化的な価値はもちろん、政治的・社会的な価値や意味を検証することが、現代社会の構造的な問題の一端を解き明かすことにつながるとの認識は広く共有されつつある。ポピュラーカルチャーの一翼を担うテレビ番組に関しても、VTRが普及したこともあり、テレビ番組のコンテクストを読み解くことで、現代社会の構造的問題を炙り出そうとする研究が、各国で見られるようになって来た。
国際的なテレビ番組流通においては、その解釈の元となる視聴者の文化的な背景も異なり、より多様な解釈が生まれることとなる。それゆえに国境を越えてやってきた日本のテレビドラマという日本の文化的背景のなかで生成された表現物が、どのような文化的な背景のもとで受容され、どのような意味解釈がなされていくのかを検証していくことは、日本という社会を考える際でも、その受容された社会を考える際でも、多くのヒントを投げかけてくれるのではなかろうか。それらの受容過程に関する論議については、場を改めて行えればと思う。
登壇者はもちろん、ウェブ・シンポジウムという特性を生かして、ここでの論議に関心を持ち、また、ご意見をくださった世界各地の皆さま。本シンポジウムにご参加いただき、ありがとうございました。
音 好宏
上智大学文学部新聞学科 教授